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コンシェルジュオフィス — 生駒ビルヂング est.1930 / 登録有形文化財

History生駒ビルヂングの歴史

1930年[昭和5年]竣工

江戸末期から大正にかけて、まだ多くの人々が長屋で寝起きをしていました。一方、れんが造りの洋風建築もところどころ見られるようになっていたと伝えられています。関東大震災の際、こうした建物は軒並み倒壊、または火災により焼失。より高い耐震性能を求め、鉄筋コンクリート造りが建築の主流となっていきました。
1926(大正15)年、生駒商店(現・生駒時計店)は当時大阪市のメインストリートであった堺筋沿いに堺筋出張店を開設します(現・生駒時計店所在地)。開設後間もなく着手したのが、鉄筋コンクリート造りの堅牢な本社ビルの建設でした。「大阪で盤石の体制を」と考えた10代目生駒権七は、商いの本拠地強化を何よりも優先したと考えられます。ビルの設計は、関西建築協会(現・日本建築協会)の副会頭・副会長を歴任した関西建築業界の重鎮・宗兵蔵率いる宗建築設計事務所へ依頼。施工は大林組が担いました。
地下1階・地上5階建てのビルは、民間レベルでは類を見ない規模で、アール・デコ様式の外観と相まって街の注目を集めました。
深いブラウン色の外壁タイルは、手作業で一つ一つに小さな溝を入れるスクラッチタイルと呼ばれるもので、生駒権七はビルのためタイルを別注。平野町1の交差点に面した外壁には、駒形に「生」を刻んだ装飾板を最上段に、8つの同型・別意匠の板を垂直に並べています。円と直線によるシンプルなデザインの時計塔。見栄えだけではなく、建物の土台には500本もの基礎杭を打って、耐震性を追求しました。全ての窓に防火シャッター、出入り口には鉄扉を設置し、防火性にも優れたビルとして1930(昭和5)年に生駒ビルヂングは完成しました。

  • 別注の手掻きスクラッチタイル

  • 時計塔

戦中戦後の生駒ビルヂング

ビルの竣工から9年後の1939(昭和14)年、第二次世界大戦が勃発しました。戦況が長引くにつれ不足していく金属資源を補うため、国は金属類回収令を施行します。生駒商店も法令に応じ、暖房用ラジエーターや階段の真鍮ほか、建物にあったほとんど全ての金属類を供出しました。唯一、戦中の混乱で存在を忘れ去られていた時計塔の鐘だけが手元に残ったと記録されています。加えて被害を受けた基幹産業の代替拠点として、1944(昭和19)年から1946(昭和21)年の2年間、自社ビルを明け渡すことにもなりました。

生駒商店は戦後、世間で通称となっていた「生駒時計店」へと社名を変更します。
1964(昭和39)年東京オリンピック、1970(昭和45)年日本万国博覧会といった国際的な催しを追い風に、日本は高度経済成長期に突入していきました。活況化する経済の中で態勢を立て直す生駒時計店のモチベーションをさらに高めたのが、「大阪の名建築」への登録が決まったという報せでした。

しかし、こうした栄誉の反面、竣工後月日を重ねた生駒ビルヂングの状態は悪化しつつありました。外壁の装飾は落下の危険性があり、内装にも問題が。イタリア産大理石の階段吹き抜けには、パイプや空調ダストがむき出しで放置され、手動式エレベーターは、停止している階を探して階段を昇り降りしなければなりませんでした。安全性を維持するために1983(昭和58)年に外壁修繕を行うべく足場を組み始めたところ、ビルの取り壊しだと勘違いされた方々が血相を変えて飛び込んでくるといったことが重なりました。それだけ生駒ビルヂングが、街の人々から大切に思われているのだということを痛感する出来事でした。改めてビルの価値を気づかされ、私たちが成すべきことを原点から見つめ直す機会となりました。

北浜T4B誕生

1997(平成9)年の登録有形文化財指定を受け、生駒ビルヂングをもっと社会に役立てたいという思いが募り、具体的な事業・サービスを模索しました。時計台や文字盤、テラコッタの装飾板、外壁に留まる鷲の彫刻、これら建物に付随する価値をハードとするならば、そのクオリティに甘えたサービスではなく、それ以上のソフトを取り入れたレンタルオフィスとして一般に開放したい。こうした試行錯誤の上で、上質なコンシェルジュサービスを導入し、2002(平成14)年、コンシェルジュオフィス北浜T4Bを開業しました。
私たちは刻一刻と変化するビジネスの世界において、常に最上のサービスを提供できるよう日々努めています。